細部に全体は内包される ~「『コーラン』を読む」を読みつつ~
「神は細部に宿る」
この言葉はわりと有名ですね、誰が言ったのかははっきりしないようですが。
これはこれで素晴らしい言葉ですし、まさしく事実だと思います。ただ、かなり感覚的、精神的、あるいは芸術的、さらには美的な言い方だと思います。
これと似ていますが、
「細部に全体は内包される」
ということも言えるのではないでしょうか。
じつは、この記事を書こうとするまで最初のほうの、「神は細部に宿る」はすっかり忘れていました(笑)
ですが最近、ふたつめのほうの、「細部に全体は内包される」ことに改めて気づかされたのです。
きっかけとなったのは、岩波現代文庫の「『コーラン』を読む」を読んだことです。
この本は市民セミナーの録音を活字化したものです。
このセミナーでは、イスラームの聖典である『コーラン』の冒頭「開扉の章」を10回かけて読んでいくことで、コーランの読み方やそこに価値観、考え方などを学ぶことが目的だったようです。
正直、読み始めるまでは、そんな「開扉の章」だけでわかるのか、と思っていたところがありました。
しかし、読んでみると、たしかにここにはコーランのすべてが凝縮されているように思えるのです。解説の中で、コーランの様々な部分が引用さるとともに、記号論も取り入れられて、井筒氏のコーランの解釈学とも呼べるものが展開されていくのです。
「開扉の章」はたった7節の短い文章です。しかし、それを理解し、解説するのにはそれだけのことを知り、考える必要があるのです。
ほんの小さなところに、全体が隠れています。
ここではたと気づいたのです、「そうか、これって音楽もそうじゃないか」と。
僕はヴィオラを弾いていることもあり、クラシック音楽ばかり聴くので他のジャンルの音楽に適用できるかはわからないのですが。
何か曲を演奏しようとしたときに、ある部分の解釈で悩むことがあります。
それは一見、たったの一音だったり、ただのクレッシェンドだったり、何となくついているスタッカートだったり、ふと追加されたひとつの楽器だったり…。
まあいいや、と流すこともできるようなものです。普通だったら気にも留めないことかもしれません。
でも気になってしまったからには、なんとか解決したくなるのです。
しかし、その場所を見ているだけでは解決できないのです。
その曲の形式や展開の仕方、さらにはその作曲家の書法のクセ、ほかの作曲家との関連、その作曲家の生活環境や行動記録、そしてその時代の潮流…。
そこまで調べないと決定できないのです。
たった一音です。ただの空気の振動です。
それなのに、そこまで奥深いものを引き出してこないと、どうするか決められない。
細部に全体が隠れています。「細部に全体は内包される」のです。
そこまでいかなかったとしても、たった一音が微妙だったから、ほんの少しだけテンポが速かったから微妙だった、ほんの少しだけ楽器間の音量バランスがずれていたから…
ほんの少しの違いなのに、それによって全体の印象が決定づけられてしまう。
そこにも通じていきます。
こちらを広げると、もっと似たようなことが見えてきます。
料理やカクテルなどでも、ほんの少しの分量の違い、ほんの少しの工程の違いで味が大きく変わってしまいます。
お酒のグラスもそうですね。ほんの少しのリムの反りやボウルの広さ、ガラスの厚さ、これでそのグラスの評価が決まってしまう。
他にもまだまだたくさんあるでしょう。
広げるときりがありません。
人間もそうですね。
その人の口調、しぐさ、着ているもの、書いた文字、さらには醸し出す雰囲気…。そういった細部に、その人の人となりや生活環境、その人の歴史が反映されます。
いや、反映されるというよりも、それを無意識に人間は感じ取ってしまいますよね。
そうして、相手がどんな人であるかを認識するわけです…。
「細部に全体は内包される」
矛盾しているようで、していないと思います。